こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation 講師の
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
当ピアノ教室は、シンガポールで最も長い指導歴を持つ日本人のピアノの先生が主宰している、出張専門のピアノ教室です。
1992年来星。シンガポールPR(永住権)保有者。
シンガポールは日本とピアノ教室の事情が異なり、法律により、講師の自宅でお教室を開講することは認められていません。
当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めた法律を遵守した、講師が生徒さんのお宅に出向いてレッスンを行う、出張ピアノ教室です。
講師 塚越 則子(つかごし のりこ)は、ヤマハ認定グレードにおいて、ピアノ、エレクトーンの演奏、指導共に最高位のグレードを保持する指導者であり、鍵盤楽器のプロフェッショナルです。
少し前に、ある投稿がSNS上で話題になり「バズっている」との記事を見ました。
女の子は赤、男の子は青と、ひとくくりにしてザックリとまとめるのは昭和の時代の発想ですね!
きっとこれを話した子どもは、自分がそう思ったから指摘したというよりも、自分自身が、周りの大人に言われた経験があったのを思い出して、つい口走ったのでしょう。深い意味はなかったのかもしれません。
大人の言っていたことを引き合いに出して、お友達に対して少し背伸びする・・・この年代の子供同士の会話では、よくあることです。
レッスンで生徒さん達に毎日接していて「あたりまえ」に実感していることは、一人一人の個性は一人一人違い、性別や年齢とは全くリンクしていないということ。
ピンクが大好きな男の子もいれば
ブルーが一番好きな女の子もいるし
スイーツ作りにハマっている男の子もいれば
メカが大好きな女の子もいます。
先日のレッスンの終了時には、12歳の男の子の生徒さんから、お手製の絶品プリンをご馳走になりましたよ。おいしかったー♬
電子ピアノの色を選ぶときも、木目調の落ち着いた色を好む女の子もいれば、ロマンティックなホワイトを選ぶ男の子もいて、みんなそれぞれ好みは違うので、一人一人のイメージに合った楽器選びも楽しいです。
かくいう私も、ケッペルエリアにキッチリと等間隔で立ち並ぶコンテナー群や煙突を見るとワクワクする「工場萌え」系の一人ですが(だけど夜景に群がって写真を撮ることには一切興味なし)
子供時代から年季の入った、筋金入りのキティラーでもあります。
手芸が得意ではないと打ち明けると「ピアノの先生らしくないね」と言われることもあります。でも、手先を使う細かな作業は好きです。え?矛盾してますか??(笑)
ピアノは女の子の楽器?
音楽業界にいると、男女の差を意識することは全くありませんが、一昔前は、一般的に、こんな言葉を耳にすることがたまにあリました。
実は、このようなイメージは19世紀のヨーロッパ社会の歴史から影響を受けていることを、ご存知でしょうか。
19世紀の西洋において、ピアノは女子教育の一つでした。女性の教育は、よき妻、よき母となるための実用的な教育に限られていました。もちろん女性が職業訓練を受けることもなく、女性弁護士や女性の建築家も女性の実業家の存在も考えられないことでした。
そのような状況の中で、事実上、唯一女性に門戸が開かれたのが、音楽教育、とくにピアノと声楽でした。女性が音楽学校で学ぶことを許された専攻は、ピアノと声楽だけで、管楽器や弦楽器、指揮、作曲の専攻は閉じられていました。音楽を学ぶ世界でも、男女の差別があったとは驚きです。
それではなぜ、女性がピアノを学ぶことが許されたのでしょうか。そこには19世紀における女性の社会的なあり方が背景にあります。
ピアノを演奏する女性は、家庭のなかのいわばアクセサリーとしてみなされていました。ピアノを演奏することの出来ない女性は、富裕階層のサロンで開催されるパーティーには出席することは不可能です。
サロンは奥様達が主宰でしたが、サロンに出入りすることが許されることは一つのステイタスであり、またそこは良縁を実現できる場でもありました。そのサロンにおける重要な出し物のひとつがピアノの演奏だったのです。
当時に雑誌にはサロンに「デビュー」する場合の、女性の仕草について事細かく解説した記事が掲載されています。まるで公園デビューの時のマナーブックみたいですね(汗)
そこには、男性の前で「専門的な作品」を長々と演奏することは決してすべきではないと記されています。
つまり、ピアノソナタなどは、女性が演奏すべき曲目ではなかったのです。かわい子ぶりっこするのに、テクニックを披露するのは相応しくないというわけですね・・・
厳格な雰囲気を漂わせた、ベートーヴェンのソナタなどはご法度だったようです。一方で、愛らしい舞曲や話題のオペラのアリアの旋律による変奏曲、民謡編曲などは女性向きの音楽とみなされていました。19世紀には女性専門のピアノ雑誌がいくつも刊行されましたが、どれも上記の曲目ばかりが並んでいたといいます。
19世紀は練習曲の時代とも言われますが、当時のピアノ雑誌には、練習曲の効能として、忍耐強く、言われた命令を素直に受け入れる精神の形成があげられていました。
つまり、目上の人、父親、夫の命令を素直に受け入れる女性を教育するには、同じ課題を繰り返し忠実に反復練習させることが効果絶大とされたのです。ここにも19世紀の女性教育の一つの側面が見られます。
やがて音楽教育が広まるにつれて、各地に音楽学校が開設されるようになりました。しかし、ここでも男女間の差別は存在し続け、音楽学校でのカリキュラムは、男性と女性とで異なっていたようです。
女性では理論の授業も音楽史の授業もなく、実技のみでした。また、女性は一定限度以上に上達することは好ましいこととは思われていなかったようで、1810年の事例では、男子学生では一日3時間の練習が義務付けられましたが、女子学生はピアノと歌唱で一日2時間と記されています。
それでも、音楽学校は、女性に唯一門戸が開かれた教育の場でしたので、続々学生が入学してきました。1866年のライプツィヒ音楽院でのピアノ科の卒業試験受験者の男女比は、19人対4人でしたが
1875年では9人対8人で、ほぼ互角になっています。ウィーン音楽院では1875年のピアノ専攻生316名の内、女性は254名で、1880年では400名のうち女性が350名に達していました。
そんな流れの中、音楽学校だけではなく、個人教授の形で音楽を深く学ぶ女性も数多く登場し始め、やがて男性以上にピアニストとして名声を博する女性も現れます。その中で頭角を表したのが「クララ・シューマン」です。
クラッシックの世界で「シューマン」といって思い起こされるのは、ドイツ・ロマン派を代表する男性作曲家「ロベルト・シューマン」ではないでしょうか。
この功績の影で、第一級のピアニストとして活躍した妻、クララの存在は、一般的にはあまり知られていませんが、女性の社会進出が進んでいなかった19世紀のヨーロパにおいて、逆境を乗り越え、自らの生き方を貫き、人生を切り開いた女性音楽家として、音楽史に偉大な足跡を残しています。
クララの存在は、女性のピアノ人口を増加させる原動力となり、さらに女性の職業進出の先駆けともなったのです。
「クララ・シューマン」の伝記は、漫画にもなっていますよ。
多様化の時代のピアノレッスンとは。
ピアノを通して、これからの未来の社会を担っていく子供達の教育に携わる立場として注目すべき点は、固定概念に囚われずに、個人の生き方を尊重するために「共感力」「想像力」を育てることであると私は常々思っています。
シンガポールの出張ピアノ教室/弾き終わりを大切にしていますか?
シンガポールの出張ピアノ教室/「聴き上手さん」は「ピアノ上手さん」♬
といっても、それは無条件に相手の意見に同調するということではなく、違いを認めて、存在を丸ごとリスペクトするということ。
相手も自分と同じ心を持つ、血の通った人間なんだということを、心の底から理解することが第一歩だと感じています。
社会全体が個人を尊重することの大切さを学べる環境づくりを行っていくことも必要ですね。そのためにピアノレッスンが貢献できることも、もちろんたくさんあります。
音楽の世界はボーダーレスで制約なし。音のコミニュケーションには国も性別も年齢も一切関係ありませんからね♡
当ピアノ教室のレッスンは、新時代にふさわしい、ワンランク上の心と音楽を学ぶレッスンです。
ピアノを学ぶことを通して、これからの時代を生きるために必要な「人間力」を育てます。