こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation 講師の
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
当ピアノ教室は、シンガポールで最も長い指導歴を持つ日本人のピアノの先生が主宰している、出張専門のピアノ教室です。
1992年来星。シンガポールPR(永住権)保有者。
シンガポールは日本とピアノ教室の事情が異なり、法律により、講師の自宅でお教室を開講することは認められていません。
当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めた法律を遵守した、講師が生徒さんのお宅に出向いてレッスンを行う、出張ピアノ教室です。
講師 塚越 則子(つかごし のりこ)は、ヤマハ認定グレードにおいて、ピアノ、エレクトーンの演奏、指導共に最高位のグレードを保持する指導者であり、鍵盤楽器のプロフェッショナルです。
今日の内容は、昨日の続編です。
今朝起きたら「童謡」のキーワードが頭に浮かび、ずっと長い間忘れていた一枚のCDの存在を思い出しました。
「ふるさと On My Mind」は、二度の脳内出血から復活した奇跡のジャズピアニスト「本田竹広」氏の演奏による、「童謡」をテーマとした大人のためのジャズ&ヒーリング・ミュージックを収録した2枚組アルバムです。
昨日「童謡」についての記事を書いているときには、頭の中に浮かんでこなかったのに、一夜明けて突然。何だか不思議な気分です。
「本田竹広」氏は、私がヤマハ音楽院生だった時のジャズピアノの師匠です。
本田先生は、現役で大活躍されている有名ジャズピアニストということもあり、お弟子さんを一切とらないアーティストの1人でしたが
当時の音楽院の指導最高責任者の計らいで、音楽院生のうちの数人だけ、ジャズピアノの指導をしてもらえることになり、私は、ピアノを専攻していた40人ほどの中から、その4名のメンバーの1人に最年少で(19歳)選ばれました。
本田竹広氏年表
本田先生の素顔を一言で表現するならば「豪快でお茶目な人」
常識に囚われない、突き抜けた破天荒さが魅力でもありました。今でもクスッと笑ってしまうエピソードがあるのですが・・・
当時、ジャズピアノのレッスンは、目黒にあるヤマハ音楽振興会本部のビルの中にあるスタジオで行っていて、1階には簡単な食事もできる小さなカフェがあり
私たち音楽院生は、そこで、仲間同士、授業の合間に借りて来た新譜レコードの情報交換をしたり(資料室には最新のレコードが揃っていて、音楽院生は無制限で借りることができました)、アレンジのアイデアを出し合ったりするのが定番でした。
みゆき嬢(中島みゆき氏は、現在、ヤマハ音楽振興会の理事です)や、八神純子さん、「クリキン」(クリスタルキング)、「チャゲアス」や世良さん、当時デビューしたてだった「チェッカーズ」のメンバーなど、所属アーティストの方々と顔を合わせることもありました。
ちなみに、「ツイスト」のキーボードの神村くんは、デビューした後に音楽院に入学してきて、私たちの同期でしたよ。
本田先生は、レッスンに遅刻してくるのがお決まりのパターンで(クラッシックの先生には、ありえないですね!)
ある日、スタジオに入るやいなや「オレさぁ、すっごくお腹すいてるんだよね、下のカフェから出前とれるのかなぁ?」と、驚きの爆弾発言。
呆気にとられている私たちの中でただ一人、即座にスタジオ内の電話に向かい、てきぱきとカフェに電話をしたのは、お姉さん格の「早川さん」です。(当ピアノ教室の、公式テキストの著者である山本英子先生の旧姓です)
シンガポールの出張ピアノ教室Q&A〜⑥レッスン初心者の教本にバイエルは使わないのですか?
「先生、ピラフができるそうです」(早川さん)
「じゃあ、それでいいよ」(本田先生)
え? 出前ってありなの?(現実についていけない、その他3名 笑)
半信半疑の私たちでしたが、しばらくすると、無事にピラフが届き、本田先生はピラフを食べながら、私たちの演奏を順番に聴いた後、おもむろにピアノのそばへ。
本田先生がピアノに向かうと、まるで何かが乗り移ったかのように、独特のオーラが漂い、ほんの少しのフレーズを単音で弾いただけなのに、サッと周りの空気が一瞬で変わるのを感じて
やっぱり本物はぜーんぜん違うんだなぁ・・・
と、音が鳴るたびに鳥肌が立ち、身体中に戦慄が走ったことを、よく覚えています。
カフェから「出前」をとろうという発想を思い立ったのは、案の定、本田先生が最初で最後だったようで、このエピソードは、その後「伝説」になったようです(笑)
デリバリーなどまだない、昭和50年代後半のことですからね。そう考えると、本田先生は時代の先端を走っていたとも言えるのですが
生徒の私たちが「出前」を届けてくれたスタッフの方に「わざわざすいません、ありがとうございます」と恐縮して頭を下げていると「どうして?」とキョトンとした顔をしていた本田先生は、「流行」とか「オシャレ」とかとは対極にあるような、まるで「野生児」のような人でした。
どこまでも自然体。岩手県の宮古市出身で、言葉には微かな東北なまりのイントネーションが時折感じられることもあり、のーんびりとした話し方。
素朴で飾らない、おおらかなお人柄は、ダイナミックでありながら、かつ、どこまでも繊細で緻密なピアノの音にも如実に現れていました。
私たち生徒4人組は、そんな本田先生の、ジャズピアノのスピリットを生の演奏からじかに学びたいと、「本田トリオ」のライブ演奏を聴くために、高円寺の「次郎吉」というライブハウスに足繁く通ったものです。
本田先生は、ライブの宣伝を一切せず(まるで無頓着)、しかも、ライブは毎回超満員だったため、私たちはいつも前売りチケットを逃さないために「ぴあ」を見ながら、ライブのチェックを欠かしませんでした。
そうこうして何回かライブに通い詰めるうちに、私たちは、終電に合わせて、途中で帰るのが惜しくなっているのを感じ始めました。
アドリブが乗ってきて、ライブが最高潮に盛り上がるのは深夜日付が変わる頃だからです。
ライブが終わったら24時間オープンしているファミレスで始発を待てばいいよね♬
そう段取りを決めて、初めて最後までライブを堪能した日の夜、本田先生は、メンバーとの打ち上げの後の食事に私たち4人も誘ってくださり、店を出るとき
これからなんて、どこにもいくことないじゃん。うちに泊まんなよ
と申し出てくださり、私たちを家に泊めてくださいました!
そして、その後私たち「生徒4人組女子」にとって、「高円寺でのライブ鑑賞」「回転寿司の夜食」「雑魚寝」「朝帰り」は、不定期開催の楽しいイベントとなったのです。
あの時から40年近く経ちましたが、私たちは同じ業界内の「同志」として今も交流があり、それぞれの持ち場で、音楽のプロとして生きています。
そして本田先生から教わったジャズピアノの真髄は、今もずっと変わらずに私たち4人の心の中で命の炎を燃やし続けています。
このアルバムは、本田先生が空に旅立たれる2年前にリリースされていますが、闘病を続けながらの渾身のピアノ演奏でありながら、どの曲にも共通しているのは木漏れ日のような「安らぎ」や、大地のような「安定感」、そして力強い「生命力」。
本田先生のお人柄が、音からダイレクトに伝わってきます。
作家の五木寛之さんは、2004年に、このアルバムのライナーノーツで、こう語られています。
「命を蘇らせる演奏」
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本田竹広さんの演奏を聴いて、生きているのもそう悪いもんじゃないな、とふと感じた。
(中略)
このアルバムは、ひとりのピアニストが後世に贈る、貴重な音楽の遺産である。
現在も週に3日、透析に通わねばならない本田さんの有限の命が、ピアノの弦に乗り移って鳴っているような気がするのは私だけだろうか。
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「のんちゃん」
音楽院時代の仲間だけが、私をそう呼びます。本田先生もそのお一人でした。
少しハスキーな本田先生の呼び声が、懐かしく思い出されます。
あぁ・・・久しぶりに、骨太のJAZZが弾きたくなってきました♬
おまけ
♦︎東京特派員秘蔵の、お宝アルバム♦︎
本田先生のピアノには曲をストレートに伝えようとする情熱を感じる(東京特派員談)