こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation 講師の
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
当ピアノ教室は、シンガポールで最も長い指導歴を持つ日本人のピアノの先生が主宰している、出張専門のピアノ教室です。
1992年来星。シンガポールPR(永住権)保有者。
シンガポールは日本とピアノ教室の事情が異なり、法律により、講師の自宅でお教室を開講することは認められていません。
当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めた法律を遵守した、講師が生徒さんのお宅に出向いてレッスンを行う、出張ピアノ教室です。
講師 塚越 則子(つかごし のりこ)は、ヤマハ認定グレードにおいて、ピアノ、エレクトーンの演奏、指導共に最高位のグレードを保持する指導者であり、鍵盤楽器演奏のエキスパートです。
今日は、私がシンガポールに来て間もない頃のエピソードをお話します。
コロナ禍で蘇る、1992年の来星当時の想い。
昨年2020年の年明けから始まった、想像を遥かに超える急激な世の中の変化を目の当たりにしながら、私は今、シンガポールに来たばかりの頃のことを改めて思い出しています。
状況はまるで異なるのですが、コロナ禍で生じている不都合や不便さは、来星当時に感じた、先行きのわからない不安への記憶を想起させるようです。
これからどうなるのだろう。。。
シンガポールでピアノを教えるようになったきっかけや、シンガポールの日本人ピアノ講師として駆け出しの頃のエピソードについては、以前お話したことがありました。
シンガポールのピアノ教室/1992年の来星当時を思い出して。
今日、これからお話するのは、私がピアノ指導を開始する以前のことです。
シンガポールに移り住むまでの私は、日本で自宅でのピアノ、エレクトーン指導や結婚式演奏と並行し、ヤマハ東京支店専属デモンストレーターとして国内外での演奏やデジタル楽器の新商品プレゼンテーション、研修講師などの音楽活動をしていました。
シンガポールの出張ピアノ教室/【追悼 橋田壽賀子さん】デモンストレーター時代の海外出張エピソードより
シンガポールの出張ピアノ教室/6歳さんからのリクエストで蘇る、33年前のXmas。。
シンガポールの出張ピアノ教室/塚越さん、事件です、バズってますよ?!
毎日が充実していて、仕事を通じて様々な年代の、様々な職種の方々との交流の機会も多く、とても刺激的な日々でした。
当時はバブル期の後期。全てが華やかな時代です。
私は、扇子を持ってお立ち台の上で踊った経験こそありませんが、前髪の立ち上げ方には毎朝入念にこだわり、プライベートの時は、戦闘服のようにカッチりした肩パッドが入った、ボディコンのスーツを好んで着ていました。
かと思いきや、突如モード系に走り、いきなりショートカットにして、周りをビックリさせたこともあります。このあたりの「とんがった感覚」は、たぶん「アーティストあるある」ですね。。。
やがて私は
何もないところから、 自分自身の力を試してみたい
そんな無鉄砲な気持ちが、心の内側からわき起こり、次第にそれが高まってくるのを感じるようになりました。
当時の生活に何か不満があった訳ではありません。
仕事は楽しくて仕方なく、責任感の伴う緊張感さえも心地よく、常に生き甲斐を感じていました。
だからこそ、別のフィールドで、さらに飛躍したいと思ったのです。どうしてなのか? それは30年経った今も、うまく説明することができません。
新天地を求めた私が、真っ先に頭に浮かべたのが、シンガポール。
出張で何回か訪れるたびに、安全で清潔感があり暮らしやすそうな点や、多民族国家の持つ多様な文化や柔軟性などに魅力を感じていたからです。
早速シンガポールへの単身移住を密かに決意し、仕事の合間を縫って独学で英語の勉強を開始し、「資金」を貯め始めました。
しかし今思い返してみれば、独学の英語は、実際には全く役には立たず。。。生活を始めてからの私は、言葉の壁に突き当たることばかりでした。
タクシーでは遠回りをされ、銀行口座を開いた時は、辞書を片手に説明をしてみたものの、言いたいことがまるで伝わらず。。。
問答を繰り返しているうちに後ろに長い列ができてしまったのを知り、慌てて平謝りしながら、初日は退散した、という、笑うに笑えないような苦い経験もあります。
そんな私でも、異国の地でただ1人、踏ん張ることができたのは、シンガポールの人々の「寛容さ」が助けてくれたから。当時のシンガポールは急激な経済発展を遂げる前の、のどかな時代で、多民族国家ならではの、包み込むようなおおらかさがありました。
何を言っているのかさっぱり分からなくても、何を言おうとしているのかを忍耐強く分かろうとして、受け入れてくれたシンガポールの人達の、数えきれないほどの優しさや、いい意味での「ユルさ」に支えられてきたからこそ、私は今日まで諦めずに前へと進んでこられたのだと思います。
シンガポールへの移住を決めた私に対し、当時のヤマハの上司たちは励ましの言葉とともに
則子ちゃん、ボクにできることはない?
と、口々におっしゃってくださり、ヤマハシンガポールへの推薦状をしたためてくださった方も何人かおられました。
しかし私はご厚意を、大変ありがたくお受けしたものの、「切り札」として使うことは結局ありませんでした。それらは今も私の大切な「お守り」です。
シンガポールヤマハに、来星のご挨拶に伺った折には、当時の東南アジア全域をカバーしている音楽教室のトップマネージャーから、東南アジアの「ジュニア専門コース専攻クラス」(より高度な演奏力と想像力での音楽表現を目指す子どもたちのためのコース)の講師のアジアのリーダーとしてぜひ、とのもったいないお言葉もいただいたのですが
私にとって、ヤマハは私を育ててくれた親も同然。シンガポールに移り住んで親元を離れた私は、音楽の親からの一人立ちも決意していたので、ありのままの自分の気持ちを正直に話し、快く理解していただきました。
もちろんその後もシンガポールヤマハとの関係は変わることなく、私にとっての愛しい古巣であり、頼りがいのある、心強い存在であることに変わりありません。
シンガポールの出張ピアノ教室/3.11東日本大震災10年目に思う。
シンガポールに来て3週間が経ち、シンガポールに滞在できる期間がいよいよ秒読み段階に入ってもなお、仕事が決まらず、眠れない日々を重ねながら心細い気持ちで過ごしていたある日、私は、偶然伝え聞いたピアニスト募集に体当たりで挑み、その日のうちにGoodwood Park Hotelの専属ピアニストとしてプロ契約を結ぶことが決まりました。
危機一髪で、めでたくシンガポールで「ミュージックアーティスト」としての、デビューの切符を手にすることができたのです!
しかし、そこから私は約半年の間、エンプロイメントパス(EP)が降りるのを悶々と待つ日々を送ることになります。
皆さんご存知のように、シンガポールは厳しい罰則の国として知られており、違法就労に関しても容赦無く、軽い気持ちでうっかりと一線を超えてしまうと取り返しのつかないことになります。
つい最近も、DPの就労に関しての新しい規則が発表されましたよね?
シンガポールの出張ピアノ教室/生徒さんのママさんとの会話より〜DP保有者の就労が厳しくなる?
シンガポールの規則は時代の背景に影響を受けたり、突然改正されることも多いのですが、当時は、外国人がシンガポールで働くためのVISAを取得するには20代だと若すぎて「プロフェッショナルとしての経験不足」とリジェクトされることがよくありました。
私の場合はリジェクトされることはありませんでしたが、MOM(Ministry Of Manpower 労働省)は、すぐにVISAを発給せず、「本当に真剣に働く意志があるのか」その覚悟の度合いを慎重に見極めていたようです。
もちろんその間は、仕事をすることはできません。しかし、ピアノを弾かないで長い間過ごすことは、私にとって命を削られているようなもの。
そこで私は、ホテルマネージャーに直談判し、好きなときにピアノを弾く許可を得ました。もちろん無償です。
ピアノを弾ける環境を得たことはもちろんですが、実際始まってみると、いつもお食事を提供していただけたことが、思いの外嬉しかったのが、自分でも意外な発見でした。
それでも私は、初めての海外での一人暮らしで、きっと心のどこかで寂しさを抱え、満たされないものがあったのでしょうね。
シンガポールに住み始めて3ヶ月が経った頃、ある日、日本人のフロアマネージャーの女性が、週に一度のお休みの日を割いて、私を夕食に誘ってくれたことがありました。
10歳年上のその女性は、当時シンガポール生活3年目。シンガポールの前には香港での勤務経験が2年あり、その時すでに海外生活5年目。
シンガポール に来たばかりの私にとって、人生の大先輩であるだけでなく、海外生活でも大先輩です。
先輩は、いつ会っても溌剌と輝いていて、初対面の時以来、私はその先輩の一挙手一投足を、いつも憧れと尊敬の眼差しで見つめていました。
同じハマっ子だと言うことも親近感に拍車をかけた理由の一つです。先輩と話をするたびに、私の心には、いつも同じ思いが去来しました。
私も将来、この先輩のようにシンガポールで立派に生き抜くことができるのだろうか
その日、先輩が私を連れて行ってくれたのは、観光客が訪れることのない「ディープなシンガポール」の一角にある、日本のスタイルそのままの「居酒屋さん」です。
お店の入り口を抜けた時、当時流行っていた「世界中の誰よりきっと」が、賑やかに出迎えてくれたことを覚えています。
店内を見回してみると、壁のポスターや、のれん、本棚に並ぶ雑誌や漫画に至るまで、どこもかしこも日本、日本、日本のオンパレード!
席について運ばれてきたメニューを見て、私は思わず声を上げてしまいました。
枝豆
冷奴
おしんこ盛り合わせ
天丼
カツ丼
親子丼
鰻重
カレー
しょうゆラーメン
鍋焼きうどん
おでん
焼き鳥
ホッケ塩焼き
今ではシンガポールでも当たり前に食べることができるこれらのメニューですが、1992年当時のシンガポールは、和食屋さんといえば数は片手で数えられるほどで、それらはすべて高級寿司屋さん、高級割烹、高級鉄板焼きと決まっており、どれも敷居の高いレストランばかりでした。
私は、日本語だけで書いてあるメニューに感動しながら、何度もめくり返し、そのうち頭の中が真っ白になり、全く考えがまとまらなくなって、つい
「どれも食べたくて、どれを選んだらいいのか、一つには、とても決められないです、悩ましくて。。。」
と思わず口にしてしまうと、先輩は面白そうに笑いながら
「そうだよぇ、わかる、わかるよ。だからいいんだよ、一つに決めなくて。遠慮しないで好きなのを好きなだけ頼みな♬食べきれなかったら持って帰ればいいじゃん」
と言うではありませんか!!!そしてこう付け加えたのです。
「それからね。則子ちゃん。ここのお代はいいから心配しないで。。その代わり、何年かしたら、今度は則子ちゃんが別の人に同じことをしてあげるんだよ、忘れないで、これは約束だからね」
悩みに悩んだ末、何を頼んだのか、今はもう思い出すことができません。
だけど食べ切れないほどのお料理を頼み、お腹が一杯になるまで食べて、懐かしい日本の雰囲気に囲まれながら、思う存分日本語で喋ってたくさん笑って心が満たされ
私は今日の、このご恩を誰かに送るために、絶対に負けないで頑張る!!
と強く誓ったことだけは、今でもはっきりと心に残っています。
私の恩送りは「音送り」。
みなさんは、「恩送り」という言葉を知っていますか?
恩送り(おんおくり)とは、誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ること
江戸時代では恩送りは普通にあったと、作家の井上ひさしさんは述べており、「恩送り」のことを「今で言う共生です」と語っておられます。
「恩送り」という考え方について、みなさんは、どう思われますか?
お世話になった、すべての人に、恩返しをすることは残念ながら不可能です。ですが、「恩送り」なら、今日からでも、できる範囲で、小さなことからいつでもできますよね?
社会のあり方を変えるきっかけは意外とすぐそばに、あまりにもばかばかしく思えるほど小さなことの中にあるのかも知れません。
しかし、ひとりひとりは弱くても
ばかばかしいことを束になって繰り返すことのなかに、とんでもない力が生まれてくる
私には、そんなふうに思えてならないのです。
今はコロナ渦により恩も送れなくなってしまっていますが、それでも温かい心を循環させることはいつでも、誰にでもできると私は思っています。
私は単に、ピアノの弾き方、ピアノのスキルの「伝道師」ではありません。
今の私があるのは、多くの人たちに支えられてきたから。
私は毎回、毎回のレッスンで、ピアノ指導を通した「恩送り」をしています。
私の「恩送り」は「音送り」でもあるのです。
憧れの先輩は、私がシンガポールで初めての日本人のピアノ講師としての活動を開始したことをとても喜んでくれて、毎年の発表会を欠かさず観に来てくれていました。
初めての出会いから8年後、先輩はシンガポールを後にし、今は沖縄で小さなペンションを経営されています。
元気で過ごされていることは知っていたので、今まで訪ねていくことはありませんでしたが
コロナが落ち着いたら会いに行って、久しぶりに昔を懐かしみながら、ゆっくり話ができたらいいな。。。夢は膨らみます。