こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation 講師の
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
当ピアノ教室は、シンガポールで最も長い指導歴を持つ日本人のピアノの先生が主宰している、出張専門のピアノ教室です。
1992年来星。シンガポールPR(永住権)保有者。
シンガポールは日本とピアノ教室の事情が異なり、法律により、講師の自宅でお教室を開講することは認められていません。
当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めた法律を遵守した、講師が生徒さんのお宅に出向いてレッスンを行う、出張ピアノ教室です。
Q&Aシリーズ⑩
先生のお宅でのレッスンはありますか?
講師 塚越 則子(つかごし のりこ)は、ヤマハ認定グレードにおいて、ピアノ、エレクトーンの演奏、指導共に最高位のグレードを保持する指導者であり、鍵盤楽器演奏のエキスパートです。
「おしん」でよみがえる、デモンストレーター時代の北京出張エピソード。
テレビドラマ「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」など多くのヒット作を書いた脚本家の橋田寿賀子(はしだ・すがこ、本名岩崎寿賀子〈いわさき・すがこ〉)さんが、4日、95年の生涯を終えられました。
山形の寒村に生まれたヒロインが、明治から昭和まで80余年の激動の時代を懸命に生きる生涯を描いたNHK連続テレビ小説「おしん」(83~84年)は、最高視聴率62.9%、平均視聴率52.6%を記録。
大ブームを巻き起こし、アジア、中東など世界の60カ国以上で広く放送されました。
最高視聴率が80%以上に達した中国では、インターネット上で、「おしんはバイブルだった」「(橋田さんは)人の心を温めてくれる作品を書いてくれた」などと逝去を悼む書き込みが広がっているそうです。
私には「おしん」のドラマにまつわる、忘れがたい思い出があります。
シンガポールに住み始める2年前の1990年、ヤマハのデモンストレーターだった頃、出張先の北京のホテルで、ある日の朝、たまたまつけたテレビから「おしん」のオープニングテーマが流れてきて
え?
もしかして、これから「おしん」が始まるの?
とドキドキしながら画面を見つめていると、中国語の吹き替えになった「おしん」の放送が始まり、とてもびっくりしたことがありました。
私は普段、海外の出張先でテレビをつけることはありません。海外での仕事は日本とは環境が違うこともあり、普段よりも気が張っているので、1人の時は、静かに音が全くない場所で、気持ちを落ち着けて集中力を高めたいからです。
それなのになぜ、北京で朝、テレビをつけたのか。。。理由があったのかどうかも、今は覚えていません。テレビに映っていたのはドラマのどのシーンだったのかも、全く思い出すことはできませんが
異国の地で、たまたまつけたテレビから聞き覚えのあるメロディが流れてきたときに走った衝撃に続いて、見慣れた俳優さん達が演じる見覚えのあるシーンが始まったことに、いたく感動し、「おしん」から大きな勇気をもらったことだけは、今も鮮明に胸に刻まれています。
その頃の私は、ヤマハ専属デモンストレーターとして国内、海外での演奏活動や新商品のプレゼンテーション、各地の講師、楽器店社員さんへの研修などを行なっていました。
今までにも海外への出張はたびたびありましたが、中国への出張は、初めてでした。
1980-1990年代の当時、いろいろな意味で、中国出張は「過酷」だということは、仕事仲間達の間では有名で
中国の出張をメインに活動していた同僚の1人は、仲間内で「弥勒菩薩さま」と呼ばれていたくらい、喜怒哀楽の感情を全く表に出さない、物静かな人でした。
その時は、中国側のオファーが「ピアノとエレクトーンと電子ピアノとキーボードがマルチで弾けるアーティスト」だったため、急遽私が駆り出されることになったのですが
覚悟していたとはいえ、想像を遥かに超えたことが日々起こり、2週間の出張で私は5㎏体重が落ち、帰宅した私を出迎えた母が、思わず
「則子ちゃん!どうしたの?!」
と、驚いて悲鳴を上げたくらいです。
中国は同じアジアとはいえ、違う国で文化が違いますので、仕事上の細かいやり取りで行き違いが生じる可能性があることは、香港や台湾で経験済みでしたので想定内です。それなりに対処できる自信がありましたが
大勢の方に周りを囲まれ、楽器の説明をしている時、後ろ側の人の質問に答えるために振り返った、その1分足らずのうちに、目の前の譜面立てに、今まで確かにあったはずの、愛用していたスヌーピーのボールペンが、跡形もなく「蒸発」してしまった時は、何が起こったのか、現実に気持ちが追いつかず激しく動揺しましたし
ある日の夕食の時、キャベツのオイスターソース煮かな?と思っていたメインディッシュが、お皿に取り分けてみて、よく眺めてみたら、アヒルの脚先の部分だとわかった時は(爪もしっかりとついてました!)
それ以来食事が全く喉を通らなくなり、次の出張先の天津までの数日間、7-upを飲み、日本から持ち込んだスナック菓子をつまんで、空腹を紛らわせることになりました。。。
滞在先は5スターのホテルでしたが、夜10時以降はお湯が止まり、蛇口の水は、出してしばらくは赤黒い色でした。
歯磨きや洗顔に使うお水は、レストランからもらってきた「白湯」を使いました。
そんな状況でも、私は出張で数日間滞在するだけですから耐えることができます。しかし長期滞在となると話は別です。
現地のコーディネートを仕切ってくださっていた、浜松本社から北京に駐在していた、私とほぼ同年代のヤマハスタッフの男性が、ある時
「塚越さん、お願いしたいことがあるんだけどいい?」
と、とても申し訳なさそうに切り出したかと思うと
「もし、日本の歌のカセットを持ってきてたら、誰のでもいいから、僕にくれないかな?」
と、真剣な眼差しで懇願してきたことがありました。その後には北京での、外国人の一人暮らしの辛さを切々と訴えてきましたが、それらのエピソードは私にとって驚くことばかりで、思わず声を失ってしまいました。。。
例えばフィアンセでなければ、外国人は同僚の中国人女性と、軽くお食事をするだけでも逮捕されてしまうなんて、信じられますか??
写真は、一つの大きな「山場」を無事に終えたあとの開放感の中での、唯一の半日オフ。街を歩くと長蛇の列に遭遇。北京で初めての「ケンタッキーフライドチキン」の店舗のオープン初日でした!
私は、その時の出張には「ウオークマン」で聴くために、いつものように、たくさんのカセットを持参してきていました。
仕事で使う資料がほとんどでしたが、気楽に楽しみたいJ-POPもいくつかあり、歌が入っているものは
聖子ちゃん
今井美樹
ユーミン
杉山清貴
などだったと記憶しています。私は迷うことなく、そのとき持っていた日本語の歌の入っているカセット全てを、彼に手渡しました。
一緒に、非常食として備蓄?!していた「グミチョコ」と「柿の種」も。
北京の後には、天津での仕事が控えており、現地の食事への不安はゼロではありませんでしたが、気持ちを切り替えて、頑張る覚悟を決めての行動は「吉」と出たようです。
全く好き嫌いがないにもかかわらず、北京では食事に泣かされた私ですが、天津では、肉まんや春巻きなどがあったので、これ幸いと朝からガンガン食べて、たまたま天津で研修の仕事で滞在していたデモンストレーター仲間の男性と、朝の食事で偶然会って同席したときには
則子ちゃん、朝からすごいねぇ!
とドン引きされてしまったくらい、私の食欲は見事な「復活」を遂げ(笑)仕事も順調に進みました!
日本を離れ、過酷な環境の中、音楽の力を広めるために1人果敢に奮闘している、北京駐在のヤマハスタッフに対して「同士」としての、強い「共感」を覚えると同時に、厚い尊敬の念を抱いた私です。
まだその頃は、そのわずか数年後に、自分も親元を離れ、住み慣れた土地を後にして、こうして現在まで30年もの間、ピアノ指導者として、日本から遠く海を隔てたシンガポールで生きることになるとは、全く想像していませんでした。
あの時渡した「日本のうた」を、彼は、どんな気持ちで聴いたのでしょう?明日への力の糧になっていたとしたら嬉しいな。。。
ニュースで流れている「おしん」のオープニングテーマ曲を久しぶりに耳にして、ぼんやりと、あの日の北京の雲に覆われた、低い空を思い出しています。
花冷えのする、ちょうど今頃の時期でした。
橋田寿賀子さんのご冥福を心よりお祈り致します。