こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation 講師の
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
1992年来星。シンガポールPR(永住権)保有者。
シンガポールで1番長い指導歴を持つ、日本人のピアノの先生です。
シンガポールは日本とピアノ教室の事情が異なり、法律により、講師の自宅でお教室を開講することは認められていません。
当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めた法律を遵守した、講師が生徒さんのお宅に出向いてレッスンを行う、出張ピアノ教室です。
Q&Aシリーズ⑩
先生のお宅でのレッスンはありますか?
講師 塚越 則子(つかごし のりこ)は、ヤマハ認定グレードにおいて、ピアノ、エレクトーンの演奏、指導共に最高位のグレードを保持する指導者であり、鍵盤楽器演奏のエキスパートです。
今日は、ピアノレッスンの話題から少し離れて、母との思い出にまつわる話です。
わたしのルーツ、母との思い出の地、福井。
昨日の午後、レッスンの移動中、立川市に住む母方の従姉妹からLINEが届きました。
従姉妹とは、時々メッセージで近況のやり取りがあり、つい先日も、定期診断の結果報告があったばかりです。従姉妹は昨年、乳がんの手術をして無事に成功し、順調に回復しています。
この従姉妹とは、学年は私が一つ下ですが、同い年ということもあって、たまにしか会うことがなくても幼い頃から特別な存在です。
従姉妹は結婚前、叔母や母の生まれ故郷である、北陸の福井に住んでいました。
大人になってからの私は、シンガポールへ移住する前、ヤマハのデモンストレーターだった頃に、浜松のヤマハ本社へ出張したとき、帰りは叔母と従姉妹に逢いにいくために自宅の横浜とは逆方向の下りの新幹線に乗って米原まで出て、サンダーバードに乗り換えて福井をよく訪れたものです。
翌日、日中は、叔母の運転する車で「永平寺」に出かけて、お参りの後は「おろしそば」を食べたり、話題のケーキ屋さんを訪ねたり、夜になると、従姉妹と2人で居酒屋さんに行ったり、カラオケに行ったりしたことが、今も懐かしく思い出されます。
福井駅からほど近い、片町にある「秋吉」という、チェーン店のやきとり屋さんが私達のお気に入りの場所でした。
このあたりは、有名なレストランが軒を連ねており、福井の地元グルメとして有名な「ソースカツ丼」の発祥の店である「ヨーロッパ軒総本店」もあります。
このレストランのすぐそばにある、順化小学校は、母や叔母、叔父達の母校です。
昔、母から聞いた話によると、母達兄妹は、幼い頃、順化小学校から歩いてすぐのあたりの場所に住んでいたのだそうです。
その当時、私の祖父は、地元で有名な加賀友禅を取り扱う織物問屋を営んでいたそうですが、1948年(昭和23年)に発生した福井地震で、家や工場が全壊し、地震直後の火災で全てを焼かれ、母達家族は全てを失ってしまったのだそうです。母が8歳のときです。
1945年(昭和20年)7月の戦災(福井空襲)から3年がたち、復興途上にあった福井市を直撃した福井地震のわずか1か月後
7月下旬には、県内を流れる一級河川の九頭竜川上流部で、記録的大雨が降ったために、堤防が決壊するなどして、大水害が発生し、福井は再び災害に見舞われてしまいます。
たった3年ほどの短い間に戦災、震災、水害と度重なる災害に見舞われ、福井市街は灰燼に帰しましたが
その度に市民たちの不屈の気概と不断の努力によって、不死鳥のごとく、力強い復興と発展を遂げたことから、福井市は市民憲章で「不死鳥のまち」を宣言しています。
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現在、福井県は、シンクタンクの一般財団法人「日本総合研究所」(東京)が分析した
「全47都道府県幸福度ランキング2020年版」(東洋経済新報社)で、
14、16、18年版に続き4回連続で総合1位となっています。また、「仕事」「教育」分野では、なんと、12年版の発刊以来、5回連続のトップという快挙です。
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テレワークが普及して、都市部から地方への住み替えが加速していると言われている現在、人気の移住先のトップは沖縄県だという報道が先頃ありましたが、このデータをもとにして、これからは福井県も脚光を浴びてくるかもしれませんね。
母は、郷土愛の強い人で、いつも福井のことを誇りに思っているようでした。
「カニはやっぱりセイコ蟹(福井県で水揚げされたズワイガニのうち、メスをセイコ蟹と呼びます)が日本で一番なのよ!」と、まるで全てを知っているかのように決めつけた子供っぽい物言いを、いつも笑っていた私です。
昨日、従姉妹から届いたLINEは、いつもの近況報告とは趣が異なった、意外な内容でした。
私の母は、2007年に空の人になりました。68歳の時です。
従姉妹によると、手紙の内容は、旦那さんの転勤で東京に引っ越してきて、まだ環境に慣れない従姉妹を気遣う内容が主だったそうです。
福井の商業高校を出て上京し、銀座の化粧品会社に勤めた母は、女性ばかりの職場で「田舎者」と揶揄されて悔しい思いをしたこともあったといいます。もしかしたら母は、従姉妹の状況に、当時の自分の境遇を重ねていたのかもしれません。
これらは、抗がん剤治療のために5日ほど入院して、また退院して、を繰り返していた時期に書かれたようで、結びの前には決まって「前向きに元気で治療に頑張っています」と記していたと知って、いかにも「優等生然」としていた母らしいなと感じました。
きっと、想像を超えた苦しみも数知れずあったのだと思いますが我慢して1人密かに耐えていたのでしょう。
普段から、辛い時、悲しい時ほど、その思いを深く内に秘めるようなところがあったのは、もともと持っている、雪国で育った人たち特有の辛抱強い気質に加えて、子供時代の壮絶な経験も影響していたのかもしれません。
もし誰かに打ち明けていたら、少しは楽になれたかもしれないのに。上手に人に甘えることができず、不器用で頑ななところもあり、子供時代の辛さを、一人娘の私にさえ詳しく話さず一人で抱えたまま、次第に意識が薄れる中、「私は幸せでした」と気丈にこの言葉だけを残して、サッと空に帰って行ってしまいました。
「俺はこんなに立派にはできない」
そう言って声を上げて泣いていた父は、気持ちを立て直すことができないまま病気になり、母の3回忌を済ませた翌年、後を追うように旅立ってしまいました。
母が唯一愚痴をこぼしたのは髪の毛がゴッソリと抜け落ちてしまった時。
オシャレな母は、叔母がお見舞いにと贈ってくれたベレー帽を「おばあさんみたい」だと酷評し(なんと失礼な。。。)被るのを断固として拒否し、どこかに出かけるときには、鏡の前で長い時間をかけても、自前であつらえたカツラのブローが、なかなか思うように決まらないと、しきりに嘆いていたことを覚えています。
私がおどけて「のり美容室に任して!」と言って、いつもと違うスタイルにパパパッと仕上げてしまい、煙に巻いたことも。。。
従姉妹とは、メッセージのやり取りの最後に、母の手紙を見せてもらう約束をしました。
母は、少女のように繊細でありながら、心の内側に熱い情熱を秘めた女性でした。
父と共に、誰よりも私の奏でるピアノの音を愛し、幼い頃から私の音楽への情熱を、いつも全身全霊で後押ししてくれた、唯一無二の存在でもあります。
ピアノ譜「もっと素敵にピアノライフ」誕生秘話。
母がいなくなって、私は、私の奏でるピアノの音の一番のファンでいてくれた存在を失って、一体誰のためにピアノを弾いたらいいのかわからなくなり、ピアノを弾くことさえ辛い時期が一年ほど続きました。
【ママからのご質問 ②】ピアノをやめたいと思ったことありますか?
レッスンの時は集中して気が張っていますし、目の前の生徒さんのことに夢中になっているので全く問題がなくても、帰り道では気が抜けて、知らないうちに訳もなく涙が溢れて仕方ないのでした。
そんな私のもとに、ヤマハ時代からの旧友から、ある仕事の依頼が届きました。その内容は
◉今までにない、電子ピアノでも使うことができる、新しい形のピアノの本を出版しようと思っていて、いま準備を進めている
◉その本に載せる曲のピアノアレンジ譜を書き下ろしてもらえないか
といったものでした。詳しく聞いてみると、私に依頼したいのは、中級者から上級者向けのピアノ曲への譜面のアレンジ5曲。選曲も内容も「全て塚越さんにお任せしたい」との何ともありがたいお申し出です。
それからの私は、まるで取り憑かれたかのようにピアノの前に座り続け、10日ほどのうちに5曲のアレンジを全て済ませ、せっせと日本にFAXで手書きのピアノ譜を送ったのを覚えています。そして誕生したのがこちら。
選曲は、自分でも驚くほどに、パパパパッと頭に思い浮かびました。
「大きな古時計」「ジュトゥヴー」「ジュピター」「彼方の光」と共に真っ先に思いついたのが「星に願いを」です。
この曲は、母に弾いたこともなければ母と聴いた思い出もないのですが、母の記憶を辿るときに決まって存在を主張してくる、不思議な「思い出の曲」です。
製本された本が手元に届いてから初めて知ったのですが、この「もっと素敵にピアノライフ」のために私が書き下ろした「星に願いを」のピアノ連弾譜は、本の中の最高難易度で、最終曲として収められています。旧友の粋な計らいに号泣してしまった私でした。
さりげなく、だけど、私にとって最強のやり方で、前へと進む、生きる力をくれた「もっと素敵にピアノライフ」の編集者、山下有美子氏は、現在日本で大ブームとなっているヤマハプロジェクト「Love Piano」の生みの親であり、現在も現場ディレクターとして、音楽業界の第一線で、日々活躍しておられます。
【ヤマハ人気イベント有明ガーデンから再始動現場】「Love Piano」プロジェクト現場ディレクターからの最新ライブ動画。
普段、ピアノレッスンで、生徒さんからディズニーの曲のリクエストを受けることがあっても「星に願いを」は歌の曲ではないので、リクエストを受けることはありません。
この譜面も、実はずっと開かずに長いこと本棚にしまわれていましたが、昨日の従姉妹からのLINEで思い出し、譜面を開いて音符を目で追ってみました。
当時の思いが鮮やかに蘇ります。「私は大丈夫!」「大丈夫と言える時がくる!」音たちは、そう叫んでいるように思えました。
今、「こんな時代」になり、あの時とは違う種類の厳しい現実の中にいても、私は、やはり母に対して変わらない願いを音に込めながら、「星に願いを」を弾くでしょう。
好きなように、いてほしい
見守ってほしい、とか、そばにいてほしい、とは望まない
心の赴くままに、会いたいと思ったときに、ふらっと訪ねてくれたら、それだけでいい
感じたいとき、私はただ、心を込めてピアノを弾けばいい
私は大丈夫
あの頃からまたさらに歳を重ねた私は、日々生きていれば、世の中には、言わなくてもいいことや、知らない方が幸せなことがあったり、世間は時に欺瞞に満ちていて、自分から見えている現実なんて、実はほんのちっぽけなものでしかないことを知っています。
そんな浮世の世界とは対照的に、母たちのいまいる場所は、黙っていても全てがお見通しで、何の隠し事もない透明な世界だといわれます。
だけど、きっとそんな違いなど、些細なこと。やはり私は、今もあの頃と変わらずに、「星に願いを」を弾きながら、ピアノの音に「私は大丈夫」の思いだけを込めて、音に全ての願いを託したいなと、そう思うのです。