こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation
塚越 則子(つかごし のりこ)です。
1992年来星。シンガポールで1番長い指導歴のピアノ講師です。

 

プロフィール

 

 

当ピアノ教室は、シンガポール政府の定めたお稽古ごとの教室開講ガイドラインに沿った

出張ピアノ教室です。

 

 

シンガポールは日本とピアノ教室の事情が大きく異なり、集合住宅内の講師の自宅をスタジオにした教室の開講は賃貸、分譲、いずれも法律で認められていません。

 

シンガポールのピアノ教室事情

 

 

さて、先日BBCニュースで面白い記事を発見しました。

 

ドイツ中部ハルバーシュタットの教会で演奏されている故ジョン・ケージ氏の作品の和音が5日、7年ぶりに変わった。9月5日は、ケージ氏の誕生日。

教会にはこの日、多くのファンが詰めかけ、音が変わる瞬間を見守った。

前衛音楽家のケージ氏が作曲した「As Slow As Possible(できるだけ遅く)」は2001年9月5日に演奏が始まり、2640年に終わる予定。

和音が前回変わったのは、2013年10月5日だった。

特製のオルガンによって演奏されている。曲の冒頭は長い休符のため、最初の和音が鳴るまでに演奏開始から18カ月近くかかった。

次に音が変わるのは2022年2月5日。

BBC News JAPANより引用

 

 

読んでいて真っ先に思い出したのが、小学生から高校生にかけて約10年間師事していた、作曲の先生のことです。

 

 

私が作曲を始めたのは7歳。当時ピアノ、エレクトーンを師事していた先生は演奏の指導者として楽典(音楽の文法のこと)のしっかりとした基礎をお持ちでしたが、せっかくこれから学ぶなのならば、きちんと専門家の元で本格的に、と、現役の作曲家の先生をご紹介下さっての出会いでした。

 

 

東京藝術大学 音楽学部 作曲科ご出身の先生は、ご自身の作曲家としての活動や、音大受験生へのご指導など多忙を極める中、まだ年端のいかない私に対しても大変熱心にご指導下さいました。

 

 

私の作曲した曲への直接の添削はなかったものの、先生からご教示いただいた作曲法の原点はその後のヤマハJOCでの作曲活動でも常に私と共にあり、優秀賞を受賞してレコード化された「さまよえる湖」は、その集大成ともいえる一曲です。

 

 

 

 

 

 

レッスンは子どもだからといって甘えは一切許されない雰囲気があり、生真面目で几帳面なご性格の先生は普段も物静かでいらしたので、ご挨拶以外に会話らしい会話をした記憶はありません。

 

 

先生の前ではいつも緊張していたイメージしかありませんが、私は特に先生がバッハのアナリーゼ(楽曲分析)をされている時に静かに伝わってくる、ハーモニーの造形美に対する愛しみを、溢れんばかりに感じる時間が大好きでした。

 

 

先生のお住まいは神奈川県の逗子にあり、駅から一色海岸行きのバスで5つほどの停留所の場所の閑静な住宅街にあり、横浜の私の家からは片道2時間ほどかかりましたので、時間に余裕を見て向かうのが常でした。

 

 

横須賀線の窓際に座って車窓の景色を見ながら気がつくと、うとうと。大船あたりからはいつも乗り過ごさないように頑張って睡魔と闘っていた記憶があります。

 

 

 

 

 

作曲のご指導を受け始めてしばらくしたある日、5分早くお伺いしたため、お叱りを受けてしまったことがありました。

 

 

 

反省した私は次のレッスンから先生のお宅の前にある公園のベンチで時間調整をした後、時計を見ながらゆっくりゆっくり歩いて、ドアの前で最終調整タイムを取ってから、慎重にチャイムを鳴らすのが定番になりました。

 

 

 

そんな話を音楽仲間にすると
「わかる、わかる、あの頃って、そうだよね!」と共感し合って、同じ道を通ってきて、同じ思いを経験した仲間としての連帯感に包まれます。

 

 

 

そして必ず最後には
「ありがたいよね、厳しくしていただいてホント、よかったよね。私達幸せだよね」と笑いながら頷き合う合うのが常です。

 

 

 

 

令和の時代では考えられませんよね?(笑)レッスンというより「修行」と言った方がしっくりきそうですが、昭和の頃のピアノレッスンは、それが当たり前でした。

 

 

 

いつも厳しい先生でしてが、その厳しさは私のことを思って下さってのことだと、子どもながらに知っていました。

 

 

それを確信した出来事は今でも忘れられません。

 

 

夏の暑い日。
いつものように公園で時間調整をしてから、時間ぴったりに先生のお宅のチャイムを鳴らし、ピアノのお部屋に通された後、先生は私に少し待つように伝え、再び戻ってきた手には、緑色の飲み物が入ったグラスがあり、飲みなさい、と差し出して下さいました。

 

 

 

グリーンティードリンクです。
あの時初めて飲みました。
先生が飲み物を出して下さったのは後にも先にもあの時一度きりです。

 

 

 

その一件以降も、私と先生の間の空気は変わらず常にピンと張り詰めていましたが、硬派で凛とした気高さを持った先生の音楽に対する崇高な思いに満ちた佇まいに、私はいつも魅了されていました。

 

 

 

 

 

 

先生は、当時毎年実施されていた藝大作曲科卒業生の定期演奏会へ曲を提供されており、門下生達は必ず聴きに行くのが恒例行事でしたが、毎回決まって演奏曲の全てが、前衛的な無調音楽で構成されていて、いつ始まったのか、いつ終わったのかさえ理解できない難解な内容の音楽でした。

 

 

 

しばらくしーーーんとしていたかと思うと、いきなりシンバルが鳴り響いたり、バイオリンのメロディの掛け合いのテンポの揺れが激しくて、聴いているうちに頭の中にたくさんの渦巻きが回っているような感覚に陥ったり。

 

 

 

曲はキレイに忘れてしまいましたが、曲が終わって客席にいる作曲家の先生方がお辞儀をなさる時、その顔に笑顔は一切なく、一様に無表情でゆっくりと、うやうやしく頭を下げる様子がおかしくて、笑いをこらえていたことを母に知られてしまい、帰り道で、こっぴどく叱られたことだけは、未だによく覚えています(笑)

 

 

 

 

 

この音楽をわかる人はいるのだろうか?

みんなちゃんと全てを理解しているのだろうか?

 

 

 

そう不思議に思いながら、周りをキョロキョロと見回して様子を伺った後、恐る恐る拍手をした時の心境を思い返し、きっとこのドイツの教会に集まった人たちの中にも、したり顔をして内心の動揺を隠してはいるものの、あの時の私と同じような気持ちの人が絶対に混じっているに違いない!(笑)と強く確信している則子せんせーです。

 

 

 

それにしても639年も続く曲なんて凄いですよね。この数字に何かこだわりがあるのでしょうか?

 

 

 

謎は尽きませんが、ここまで突き抜けることができたら芸術家として超一流です、あっぱれ!!

思わず拍手喝采です。