こんにちは。
シンガポールの出張ピアノ教室
fairy wish creation
講師の 塚越 則子です。
当ピアノ教室で学ぶ生徒さんたちや保護者のみなさん、公式サイトを熱心に読んでくださっている方々はご存知かと思うのですが
私は、1992年にシンガポールに単身で移住し、一から生活をスタートしました。
そう。
他の日本人ピアノ指導者たちのように「たまたま家族の赴任でシンガポールに来たから」「たまたまシンガポール人と結婚してPRがあるから」「ピアノを教えることにした」のではありません。
誰も知り合いのいない場所で、果たして自分がどれだけ通用するのか、腕一本で力を試してみたかった
夢を叶えるために何年もかけて自分なりに調査をしたり、お金を貯めたりと、入念な準備をしました。
どうしてもダメならばキッパリとあきらめて帰国するつもりで、異国の地でピアノでたった1人、身を立てていく覚悟を固めて来星したのです。
当然、仕事に向ける意識や、指導にかける情熱は、”最初から、シンガポールでの衣、食、住、全てのお膳立てが整っている” 他の方々たちとは違って当たり前と言えるでしょう。というより
横並びで考えていただくのは、いささか抵抗がありますというのが、偽らざる本音だったりします。
来星したときは頼るあてもなく、家も、仕事も何も決まっていませんでした。今思うと無謀ですよね。親はよく許してくれたものだと感心します。
まだ携帯電話も一般に普及しておらず、インターネットもない時代です。
当時のシンガポールは、まだ今のような、著しい経済発展を遂げる前でした。
当時所属していたYAMAHA東京支店の上司は、とても心配して、シンガポールYAMAHAで仕事ができるようにと推薦状をしたためてくださいましたが
ご厚意にぶら下がってしまっては意味がありません。
幼い頃からの演奏活動を通じて、また、来星間際まで、デモンストレーターとして籍を置いていたYAMAHAには、知っている方々が大勢いて「どこかで繋がっていて」「良き計らいをしてくださる」ことは決まりきっているからです。
ちなみに、その封書は、いまでも大切に私の手元に保管してあり、私のお守りです。
ソーシャルVISAでシンガポールに滞在できるのは1ヶ月でしたので、その間に生活の基盤を築こうと、とにかく必死でした。
そして幸運にも、体当たりで飛び込んだGoodwood park Hotelのピアニストのオーディションに合格することができたのです。
演奏の仕事は、気が張ることも多い一方で、毎日が楽しい刺激に満ちており
さすが由緒ある5スターホテルだけあって、有名人、著名人が、お忍びで訪れることも頻繁にあり、ピアノを弾いていると声をかけていただくこともありました。
そこはかと気品の漂う紳士から
「日本人の方ですね。素敵な演奏ありがとう」
とのお言葉をいただき、会話を交わしたときは、周りがどよめいていて
どうしたのかしら?
と不思議に思っていたら、閣僚のトップだったということもあります。
プライベートでの会食だったようですが、そういえば遠巻きに何人もの、鋭い目をした人たちがいたような…おそらくSPですね。
「男たちの挽歌」シリーズで、日本でも人気を博した、香港のアクション映画スター、チョールンファは、よく訪れて、いつも気さくに声をかけてくれたものです。
やがて駐在員ご家族や在留邦人とも顔見知りになり、ご自宅でのプライベートレッスンを依頼されることも増えました。
そのお一人がMrs.Yongです。
お孫さんの先生になってくださいとのお申し出でした。
当時の私の就労ビザのステイタスはEP。パートタイムは規則で禁止されていましたが、上司から「ピアノを習いたい日本人の人たちのために、頑張って貢献してください」と特別に許可をいただき、演奏の仕事と出張レッスンの掛け持ちをしていましたよ。
ご主人がマレーシアンチャイニーズで多くのホテルを所有しておられるMrs.Yongのご自宅は、ホーランド近郊の、瀟洒な一軒家が立ち並ぶエリアにありました。
初めてのレッスンのとき「お迎えにあがりますね」と言っていただき、前のレッスンをしていた、タングリンの「クレイモア」のセキュリティゲートまでお車で来て頂いたのですが、目の前に止まったのはなんと
真っ赤なポルシェ
山口百恵の歌、そのものですよね(笑)
※写真はイメージです。
通されたリビングは、ダンスホールのように広く、隅っこに小さく見えたグランドピアノはスタンウェイ製。
お客様を招いてパーティをすることもよくあるとのことでした。
※写真はイメージです。
お借りしたお手洗いには、パティオに面した明るい窓があり、当時私が住んでいたベッドルームよりも広くて、立派なペルシャ絨毯が敷いてありました。とてもビックリしたことをよく覚えています。
※写真はイメージです。
いつも美しく整えられていたお庭には専門の庭師さんが3人おられ、それぞれ担当が決まっているということでした。
お孫さんは、とてもヤンチャな少年でしたが私と気が合い、当時男の子に絶大な人気を誇っていた「パワーレンジャー」の連弾をしたりして楽しんだものです。
難関で有名なローカル校に無事に合格してからは、勉強に専念するためにレッスンを離れましたが、レッスンを続けていた3年間は発表会にも毎年参加して頑張りました。
Mrs.Yomgとは色々なお話をしました。シンガポール生活の大先輩として学ばせていただくことも多かったけれど、いま、しみじみと思い返すエピソードが一つあります。
「母が亡くなってから、一度も実家に帰っていないのよ、おかしいでしょ」
「お墓にも行ってないのよ。だって寂しくって」
お母さんがこの世にもういないことを実感したくない、確認したくない、現実を認めたくないと話していたMrs.Yongに、私はえ?と違和感を感じて、心の中で
「でも、お母さんは待っているのではないでしょうか」
「お線香をあげてください」
と、叫んでいました。
当時、両親がまだ健在だった私は、母親をなくすということの辛さが本当の意味で理解できず、Mrs.Yongの心の痛みを、真からわかっていなかったのです。
無神経に声に出さなくてよかった。
もし自分の思いを、そのまま言葉で伝えていたなら、繊細なMrs.Yongを傷つけてしまっていたでしょう。
世の中は、正論で全て成り立っているわけではありません。
人には、経験してみなければわからない思いがあるというところまで、深く考えが及ばないのが若さというものなのかもしれませんね。
あの時から飛ぶように年月が過ぎ、私も、当時のMrs.Yongと、ほぼ同世代になりました。
母を、そして父を相次いで空に見送りました。身を切られるような日々も経験してきたけれど、改めて思うのは、私には音楽があったから心から幸せだということ。
音楽があるから、たくさんの方々と出会い、素晴らしい思い出を紡ぐことができるのです。
書き進めていったら思いのほか長くなってしまいましたが…
今日は練習したい曲があるので、これからじっくりとピアノに向かいます。
どこよりも手厚く、きめ細やかなピアノ指導で、シンガポールの駐在員日本人ご家族との信頼の絆を築いて32年。
頑張ることを楽しむ心を育てる
当ピアノ教室のレッスンは、ワンランク上の心と音楽を学ぶレッスンです。
ピアノを学ぶことを通して、これからの時代を生きるために必要な「人間力」を育てます。
当ピアノ教室は、300人以上の生徒さんたちを育て上げた経験を持つ、シンガポールで一番長い指導歴の日本人のピアノの先生が主宰している出張専門のピアノ教室です。